第5話 ダイヤモンドリリー

 
 時間割が発表された。

 いつもは教師の言うことなど雑音ぐらいにしか思っていないクラスメイト達もこの時ばかりは全員真剣な顔をして教卓の方を凝視していた。担任は二週間に一回組まれる時間割をプリントを読みながら機械的に黒板に板書している。遊は転入以来一度も開いたことのないノートを机に置いてチョークの文字を目で追っていた。

「あ」

 女子の一人が声をもらす。

 全員の緊張感が嫌でも肌から伝わってくる。空気の色が瞬時に変わった。

 明々後日の六時限目が「実戦」だった。

 場所はこの学校の校庭と校舎。

 つまり敵がここに乗り込んでくるという設定だ。遊は夏目の背中を見た。微かに震えているような気がする。担任は休んでいる薄荷にも伝えておいてくれと遊を一瞥して言う。遊は頷いた。終業のチャイムが鳴って、クラスメイト達は席を立って散っていく。遊は担任から渡されたプリントをカバンに入れて席を立った。夏目だけはまだ教室に残っていた。次の実戦に備えて作戦を考えているのかもしれない。地の利はあるが、その分相手の戦力はこっちより多いだろう。そうやって常にゲームは接戦になるように設定されるのがだいたいのパターンだ。遊が転入したときの突発イベントがある意味異常だった。あるいは薄荷の戦闘力を考慮して妥当と判断されたのかもしれない。

「去年の夏、同じような戦闘があった」

 夏目が遊に背を向けたまま独り言のように話した。

「他のクラスや学年は?」遊は夏目の背を見たまま尋ねた。

 夏目は首を横に振る。「あたし達のクラスだけで出た。今回と同じ」

「あなたと薄荷が今ここにいるってことは勝ったんだね」

「あたしと東雲以外は皆やられた」夏目が吐き捨てるように言う。

 遊は黙っていた。

「あいつがいるといつも不利な条件で戦わなくちゃならないんだ。あいつのカウンタは異常値だから単純に計算式にあてはめるといつもあたし達の部隊が少ない人数で戦場に出なきゃいけない……。あいつ自身は生き残るからいいかもしれないけど、あいつと組んだヤツは皆ごろごろ死んでいく。あたしは敵より東雲を何度殺そうかと思ったかわからない」

「あなたの仲間が死んだのが薄荷のせいだって思ってるんだ」

「違うって言うの?」

 夏目が振り返って遊をにらんだ。

 遊は夏目の視線を受け止める。

 ――薄荷のせいにして、自分が楽になりたいだけなんでしょ?

 喉までその言葉がでかかっていた。

 が、遊はその言葉を飲み込んだ。

「帰る」

 遊は夏目に背を向ける。

 夏目は何も言わなかった。

 明々後日。

 もしかしてそこで最後かもしれない。


***


 寮に戻って薄荷の靴箱を開けると空っぽだった。

 ちょうど通りかかった管理人に尋ねたら、部屋にいなければ学校だろうと酒くさい息といっしょに教えてくれた。遊は四つ折したプリントを薄荷の靴箱につっこんで部屋に戻ろうかと思ったが、すぐに伝えようと考えなおした。内容が「実戦」についてだったからだ。周囲の評価はどうあれ薄荷が部隊のエースであることは間違いない。作戦を早目に立てたい。トラップを仕掛けるなら今日からでも始めないと。夏目には期待はできない。遊は自分の部屋で一旦着替えてからまた玄関に降りる。寮を出ようとしたら小雨が降ってきた。傘を取りにまた部屋に戻るか駆け足で行ってしまおうか遊が迷っている間に雨は強くなっていく。玄関の隅に傘立てがあって、安っぽいビニール傘が二本ささっている。遊はそれを手にして管理人室の方に「傘、借ります」と叫んだ。返事はなかったが遊は傘をさして玄関を出た。

 雨だけでなく風も強く吹いている。遊は水たまりを避けつつ早足で歩いた。風は向かい風。油断すると傘を飛ばされそうだ。右手だけで頑張って堪える。左手は薄荷の分の傘ですでにうまっていた。遊は二本傘を持ってきたことを後悔した。

 ひゅうと耳障りな音がした。

 と思ったら、傘の骨が折れた。

 次の瞬間、遊は正面から雨粒に全身を撃ち抜かれる。

 ……もういいや。

 遊は傘をたたむとそのまま走って校舎を目指した。Tシャツが濡れて背中に貼りつき、髪が重くなる。プリントも水を吸ってごわごわになった。遊は両手に一本ずつ持った傘を前後に大きく振って校門を走り抜けて一気に昇降口までたどり着いた。

 息を整えながら、髪を指で梳く。

 人の気配はない。

 もう授業は終わったから、生徒はとっくに下校している。

 薄荷はどこにいるんだろう。

 たぶん教室にはいない。

 よくよく考えたら薄荷はほとんど教室にはやって来ない。来てもすぐにまたどこかに行ってしまう。ロクに授業にも出席しない。もちろんこの学校の授業なんてとっくに形骸化したものだから出たって意味はない。それでも遊はこの学校ごっこが割りと気に入っていた。学校に通うのは子供で大人ではない。学校に通っている間は子供でいられるような気がした。大人になんかなりたくはない。

 くしゅん。

 くしゃみが出た。

 寒気を感じる。遊は顔をしかめる。ミスを犯したかもしれない。「実戦」前に風邪をひくようなことをしてしまった。早く寮に戻って身体を温めたほうがいい。薄荷には夜話すしかないだろう。遊は扉の外を眺めた。まだ雨は強い。もう少し弱くなるまで待つべきか。今もっているビニール傘では心もとない。遊は代わりの傘はないかと昇降口の中を見渡した。左手の隅っこに共用の傘立てがあったが、あいにく空っぽでその隣には古い竹箒とプランターが放置してあった。

 遊は薄荷がプランターを抱えて校庭を走り回っていたのを思い出した。

 この学校でプランターを置いてあった場所は校庭の周囲か、裏門にある百葉箱の周辺だ。ここに来るとき校庭は横切ったが、誰の姿もなかった。

 当然だ。この雨の中外にいる理由が見当たらない。

 遊はもう一度外を見る。

 雨は激しさを増していた。

 居るはずがない。

 遊はビニール傘をさして、外へと踏み出した。


***


 百葉箱のそばでずぶ濡れになっている薄荷を見た時、遊は軽くめまいを感じた。

 薄荷はプランターの前でかがんで、懸命に土いじりをしている。遊が来たことにも気がついていない様子だった。いくら土砂降りの中とはいえ、薄荷ほどの兵士がどうしてしまったのか。遊は薄荷の真後ろまで近づいた。薄荷はまだ遊に気がつかない。小さなスコップを片手に丁寧な手つきで球根を植えていた。せっかくの白いワンピースが泥だらけだ。綺麗な髪の先端も地面に触れて汚れているし、むきだしになっている肩と首筋は寒さのせいか青白い。遊は傘を傾ける。ずっと薄荷の頭と肩を叩いていた雨粒を遮断した。薄荷の肩がぴくっと震えて、ようやく遊を振り返った。

「風邪ひくよ」

 遊はなるべく感情を抑えて、フラットな声を出す。

「う、うん」

 薄荷の顔は髪がべっとりとはりついていて半分くらいしか見えなかった。それでも遊は薄荷が緊張しているのがわかった。

「何をしてるの?」

「球根植えてる」

「何の球根?」

「ダイヤモンドリリー」

 薄荷は微かに笑うと、また作業に戻った。

「こんな日にやらなくてもいいのに」

「でも、荒らされてたから可哀想になって」

「え?」

「ここ、僕の花壇だから」

 薄荷は手にしたスコップで空中に半円を描き、百葉箱の周りに置かれたいくつかのプランターをしめした。ただそこに花は一輪も咲いていない。中にはひっくり返って中の土を周囲にぶちまけているものもある。野良猫か野良犬だろうか。

「それ、どれくらいで咲くの?」

「一ヶ月か二ヶ月」

「結構、早いんだね」

「うん、早く咲くのを選んでる」薄荷はぺたぺたと球根を埋めた土を素手で撫でながらつぶやく。「あんまり遅いと、僕が死んじゃって見れないかもしれないし」

「……そうだね」

 遊は片手に持ったプリントをぎゅっと握り締めた。

 すでにしわくちゃになっているプリントがさらにひどいことになる。

 でも、いい。

 今はまだ伝えなくてもいい。

 今だけは。

「早く咲くといいね」

 傘を薄荷のほうへと傾けたまま、遊は全身を雨に打たれ続ける。薄荷は微かに頷く。

 そして、遊は飛んできた空き缶を傘を振って地面に叩き落とした。

 泥水が跳ねる。

 遊と薄荷は同時に顔を夏目達に向けた。遊は夏目が右手にぶら下げている拳銃を視界にとらえて「実戦」だと思った。

「どういうこと?」夏目と夏目の後ろに立っているクラスメイト達の顔をざっと見る。全員いた。八人。

「遊びの時間よ」夏目が笑う。「あたし達のおもちゃを渡してくれる? 南野」

「薄荷を怪我させたのはやっぱりあなた達なんだ」遊は傘をとじながらクラスメイト達を観察する。拳銃を持っているのはたぶん夏目だけだ。「戦闘だけじゃ足りないんだ? 血の気が多いね」挑発するように言う。

 夏目の眉が跳ね上がって、雨の音に銃声が重なった。

 プランターが割れた。

 薬莢が転がる。

「うるさいよ。南野」夏目は銃口を遊に向けた。

「本当に撃つなんて思わなかったよ」

「意外と甘いわね。撃つに決まってるじゃない」

 夏目は口元に薄笑いを貼りつけたまま近づいてくる。

「軍が弾丸の数を調査したら、あなた処分されるよ」

「こんな最前線に調査なんか入らないわよ。たとえ入ったってどうとでもごまかせるわ」

 処分という言葉を聞いた時、微かに夏目とクラスメイト達の動揺が読み取れた。その程度の覚悟か。遊は微かに口の端を曲げる。

「何がおかしいの? ムカつくわね……あんたも東雲といっしょに遊んでみる?」

 夏目がそう言うと、薄荷は立ち上がって遊と夏目の間に立った。

「夏目、遊は関係ないよ。やめて」

 え?

 遊は薄荷の行動に戸惑った。

 薄荷が私を……。

「頭おかしいくせに、あたしに命令すんなっ!」

 夏目が拳銃のグリップで薙ぎ払うようにして、薄荷の顔面を打ちつけた。薄荷はそのまま泥水を飛ばして地面に倒れる。

 遊の中で何かが弾けた。

 こいつ殺してやる。

 遊は夏目の手首を両手で掴む。

「放せっ!」

 言葉で応えるつもりなどない。そのまま夏目の腹に膝を入れた。夏目はうめいて身体を折り曲げた。しかし拳銃は放さなかった。空に向かって発砲する。それを合図にしたかのように、残りのクラスメイト達が遊と薄荷に襲い掛かった。

 遊は夏目から引き離され、男子生徒に羽交い絞めにされ動きを封じられた。いつも夏目のそばにいた女子生徒が遊の顔面に容赦なく拳を入れる。遊は女子の顔面に蹴りを放ったが避けられた。怒声をあげた女子生徒は反対に遊の下腹部を何度も蹴った。

 血を吐く。

 痛くて立っていられなくなった。

 遊が地面に膝を折ると、周囲を四人の生徒に囲まれてボールみたく蹴り続けられた。痛みと地面からの冷気で身体が縮こまる。

 霞んでいく視界に薄荷の姿が映る。

 薄荷も地面に倒されていた。馬乗りになった男子にいいように殴られている。プランターも全部ひっくり返されていた。

 遊は「薄荷」と呼ぼうとした。

 でも、できなかった。呼吸をまともにする余裕すらなかった。

 だんだん薄荷の姿が遠くぼんやりとしてくる。機銃があったら、トリガを引けたら、こんな奴ら……。

 遊の意識はそこで途絶えた。


***


 頬を叩く雨粒で目が覚めた。

 遊は目をあけて、鉛色の空をぼんやりと眺めた。もう周囲に夏目達はいない。敵は消えた。どうやら殺されずには済んだ。上体を起こすだけで随分時間がかかった。身体はもう冷えすぎて感覚が麻痺しているみたいだ。きっとあとですごく痛くなる。

 遊は「薄荷」と声を出した。

 近くで「遊」と返事があった。

 薄荷は遊のすぐそばで倒れていた。遊と同じようにゆっくりと身体を起こしている。遊は薄荷の姿を見る。綺麗な顔も白いワンピースも泥と血でめちゃくちゃだった。薄荷はそれでも遊と目が合うと嬉しそうに笑んだ。その笑顔を見たとき、遊は泣きたくなった。

「自殺は嫌だけど――」薄荷は土砂降りの中空を見上げる。「早く死にたいね」

 遊は「そうだね」と答えた。