第8話 止まったカウンタ

 
 バスの自動扉がガタンと音を立てて開く。アスファルトからのもわっとした熱気に遊は顔をしかめた。薄荷は鼻歌を歌いながらステップを踏んで車内に乗り込む。白髪の運転手に「よろしくお願いします」と笑顔で挨拶。面食らった運転手は苦笑しつつ「はい」と答える。他の乗客はその様子を見てくすくす笑った。恥ずかしくなった遊は薄荷の腕をとると速攻で空いてる一番後ろの長椅子に移動する。出発早々これかよと息を吐いた。

「涼しー、あ、橋だー」

 窓際に座った薄荷は風を顔にもろに受けながら窓枠に両手をついて、きゃっきゃとはしゃいでいる。遊はその隣で軍で支給された携帯食を取り出してかじりついた。慌しく出発の準備をしたせいでロクに朝食を摂れなかった。もう空腹リミット状態だ。携帯食はドライフルーツを小麦粉で固めて焼いたような代物で食べれば食べるほどノドが乾く。水筒の水で薬を飲み込むように胃に流した。ようやく人心地つく。後はこのまま何もしなくても目的地に着く。超田舎の非戦闘区域に。そう思っただけで何だかホッとした。背中を背もたれに預けると、自然にバスの天井が目に入る。古臭い型の送風機と中吊り広告がぶら下がっていた。送風機の風はお世辞にも涼しいとはいえない。

「冷房車じゃないんだ……」遊は額に浮かんできた汗を手の甲で拭う。

「ん? 暑いなら僕みたいに窓から顔出せば涼しくなるよ」

「薄荷、危ないから……」言いながら視線を移す。

 薄荷は顔どころか今にも飛び出さんばかりに上半身を窓からつきだしていた。

 箱乗り状態。

「こら!」

「え? あ、ひゃう!」

 遊は薄荷の腰を両腕で抱きかかえると、強引に車内に引っ張り戻した。薄荷の身体が引っ込むとすぐに大型ダンプが激しくパッシングしながらバスを追い抜いていった。運転手が「大変危険ですから窓から顔や手を出さないように、お願いします。お姉さん妹さんをよろしく面倒みてあげてください」とアナウンスを入れる。

 笑い声が起きた。

「何やってるのよ。危ないでしょう!」遊は恥ずかしい目に合わされた怒りをたった今できたばかりの妹にぶつけた。

「遊、お尻触った、エッチ」妹は尻を摩りながら姉を半眼でにらむ。

「触りたくないわよ、そんなもん!」

「あいこだから、僕も遊の触る」

「は? ちょっと! こら、薄荷、やめ、やめなさーいっ!」

 遊と薄荷は長椅子の上でもつれ合う。

 ふざけて抱きついてくる薄荷の背中を「暑いでしょ!」と叫んで遊は何度も叩く。薄荷は遊に叩かれながらも嬉しそうにくっついてくる。どちらも見た目とは違い鍛えあげられた兵士なのでなかなか決着はつかず、戦況は一進一退の膠着状態となり、さらに時間を経て二人とも疲れて動きがだんだん鈍ってきた。そして、ついに薄荷は遊の膝に頭を預けたまま動かなくなった。

「薄荷?」

 薄荷はすやすやと寝息を立てていた。

「……暑いのに」

 遊は文句を口にしながら、薄荷の顔にかかった髪をよけてやる。

 送風機の風が少しだけ涼しく感じた。

 窓の向こうの風景に含まれる緑色の割合がかなり増えている。いつのまにか郊外まで来ていたようだ。遊はカウンタで時刻を確認する。十時十五分。

 正午には目的の駅にたどり着く。

 それまで、少し私も眠ろう。



***



 薄荷の話では目的の駅はバスターミナルから歩いて五分ほどのところにあるという。二人は正午を二十分ほど過ぎて到着したバスから降りて歩道を進んだ。毎年来ているという薄荷に連れられ、遊はさんさんと降り注ぐ夏の太陽にいじめられながらも我慢して歩き続けた。五分という見積もりがいい加減だったのか、自分達の歩みがノロかったのかはわからないが十分は余裕でかかった。

 入り口の周囲に無造作に積み上げられたダンボール箱がまず目に留まった。

 ひっくり返されたベンチ。全部の商品が「売り切れ」の赤いランプを点灯しているジュースの自動販売機。そして、極めつけは駅名が書かれた看板にご丁寧にも描かれた大きな赤いペケ印。

 駅舎が視界に入った頃から嫌な予感はしていた。

 ぴっちりと閉ざされた扉の前に「当駅は路線の廃止に伴い、今年三月末を持ちまして営業停止となりました。皆様の長年のご愛顧に厚くお礼申し上げます。駅長」と書かれた貼り紙を見つけて遊は頭を抱え、薄荷は「きゃはは」と笑い出した。

「笑いごとじゃない」遊は薄荷の後頭部に強めのチョップを叩き込んだ。

「はうっ」薄荷の首がかっくんと折れ曲がる。

「廃駅に来て、どうすんのよ……」遊はため息とともに言葉をもらす。

「何とかなるって、地続きなんだし」薄荷はあくまで能天気に超地球的発想を展開した。

 遊はつっこむ気力もない。体力もない。

 朝からロクなものを食べてないから腹が減っていたし、何よりもこの太陽光線を何とかしたい。まずは態勢を整えよう。その後、現状を正確に把握して適切な判断を下し行動に移るのだ。

 まずは涼とご飯。

 遊は駅舎から離れて周囲を目視する。

 百メートルほど先にファミリーレストランの看板を発見。遊はあそこを仮の拠点とすることを選択した。

「薄荷、あのファミレスに行こう」

「おお~」薄荷が嬉しそうに万歳のポーズをする。異論はないようだ。

「あそこで作戦タイム」

「サー、イエッサー!」

 二人だけの部隊は早速目標へと向かって進軍を開始する。

 薄荷はにこにこ笑いながら遊の隣を同じ歩幅で歩いていく。進みすぎない、遅れない。遊と少しでも距離を離したくない、そんな風に見える。まるで子犬みたいだと遊は思う。あまり懐かれるのは困るけど、悪い気はしない。途中ですれ違う同世代の子達は男女を問わず、遊と薄荷に目をとめた。特に薄荷を見つめる視線には感嘆と憧憬の思いがこめられているのを感じる。やっぱり誰から見ても薄荷は綺麗な子なんだ。薄荷はまるで兵隊が行進するかのようにわざと両腕を大きく前後に振っていた。いつも子供っぽいことをする子だけど、今日は特にその傾向が強い。いつもの五割り増しくらいに。

 真横に並んだ遊の手に薄荷の手が時折触れた。

 遊は隣の薄荷をちらっと見る。

 薄荷は遊の視線に気付かず、前を見つめて下手くそな口笛なんか吹いている。

 遊は特に何も言わない。

 向かう途中、ランチが五百円の中華料理屋とバリューセットが四百五十円のハンバーガーショップもあったが初志を貫いてファミレスまでやってきた。一階が駐車スペースで二階が店舗になっている聞いたことがない名前の店だ。近くで見上げると看板の電飾はところどころが欠けていて薄汚れていた。駐車場はガラ空きで、原付と軽トラが一台ずつあるだけ。階段の手すりは少し触ったらペンキが豪快にはがれて驚いた。

 そこかしこに流行ってないオーラが漂っている。

 まあいい。

 空腹を満たせて涼めればそれで文句はない。

 遊と薄荷は階段を登って、スウイングドアをくぐり店に突入した。予想通り客は二組しかいなくて待合スペースは閑古鳥が鳴いている。冷房は効きすぎなくらい。汗が一気に引いていく。

「いらっしゃいませ~」

 奥から遊と薄荷よりひと回りくらい年長と思われるウェイトレスがやってきた。オレンジ色と白のストライプのシャツにこげ茶色のスカートをはいている。甘えたような声が特徴的だ。

「お二人様ですか~?」

 砂糖菓子みたいな声に遊は無言で頷いた。

「こちらへ、どうぞ~」

「はーい!」ウェイトレスの声に薄荷は挙手をして答える。

 遊は心の中で、返事しなくてもいいからとツッコミつつ薄荷と席に移動する。ウェイトレスは薄荷を見て、「うわぁ~、あなたすっごい可愛いね、地元の人?」と馴れ馴れしく話しかけていた。薄荷は「ううん、違うよ」と笑んでいた。

 ノンキな会話だと遊は思う。

 でも、まあいいか。

 今は夏休み。

 少しくらい羽根を伸ばしても、トリガのことを忘れてもいいだろう。

 四人がけのテーブル席を二人で陣取る。

 ウエイトレスは「お決まりになったらお呼びくださ~い」とテンプレな台詞を残して立ち去った。遊と薄荷はすぐさまメニューを開いて凝視する。二人ともかなり空腹だった。思いっきり食べようと遊は店に入る前から決めていた。お金なら充分ある。毎月振り込まれる奨学金が一年分ほとんど手付かずで残っているからだ。必要な物は軍が支給してくれる上に服装にも無頓着で無趣味の遊は生活費が限りなくゼロに近いのだ。そして、それは薄荷も同様だった。

 これしかないと決めて、遊はメニューから顔を上げる。

 薄荷と目が合う。

 薄荷もこっくりと首を縦に振った。もうオーダーは決まったようだ。

 遊はテーブルの右隅にある呼び鈴代わりのブザーを押す。

 すぐに砂糖菓子声のウェイトレスはやって来た。

 遊は彼女がPOSを取り出すのを確認すると、すぐさま弾丸を放つ。

「特選十七種の野菜のせ和風ハンバーグセット、大根おろしソースでライス大盛り。それとベーコンとほうれん草のソテーと新鮮たらことイカのパスタ、あとコーンマヨネーズピッツァ。食後に季節の果物パフェ、アイス三種盛りにヨーグルトサンデー」

 続いて薄荷もトリガを引く。

「きのこのオムライス、ホワイトソース仕立てと若鶏のグリル&やわらかポークソテー。それにエビ天つきあんかけうどんと僕もコーンマヨネーズピッツァ。食後に自家製バケツプリン黒蜜ソース。あとチョコレートパフェ」

「野菜足りなくない?」遊が今までのオーダーを反芻して疑問を投げかける。

「じゃあ、コンビネーションサラダのラージサイズ」薄荷がすぐさま対応する。

「それ二人前。あと、」遊は薄荷の提案に追従した。「ドリンクバー。これも二つだよね?」

「うん」当然とばかりに薄荷は頷いた。

 ウェイトレスはよどみなく大量のオーダーをPOSに叩き入れ「少々、いえそれなりにお待ちくださ~い」と言って奥に消える。

 しばらくすると有線放送に混じって、慌しく鍋を振ったり、何かを焼く音がし始めた。どうやら厨房の稼働率を一気に押し上げてしまったらしい。

「はい」という薄荷の声がして、遊の前に緑色の液体で満たされたグラスが置かれた。

 メロンソーダ。

 遊は「うん」と応えてストローの包み紙を破って、グラスに刺した。人工的な甘味とのどへの痛いくらいの刺激が嬉しい。一瞬で半分くらい飲んでしまう。

 薄荷はストローを使わず直接グラスに口をつけて、一気に飲み干していた。

「次、何飲む? 持ってきてあげる」

 薄荷はたん! と勢い良くグラスを置いて、微笑んだ。

「まだいいよ。あんまり飲んでご飯入らなくなるとイヤだし」

「ちょっと休めば平気じゃない? ねえ、遊」

 薄荷は急に真面目な表情をして身を乗り出してくる。

「え? 何?」

「泉野さんってさ」

「イズミヤって誰?」

「さっきのウエイトレスさん。名札にそう書いてあった」

「ふうん。で、その泉野さんがどうかしたの?」

「おっぱいおっきいよね!」薄荷が自分のぺったんこな胸を両手で摩りながら、目を見開く。

「……そういうこと叫ばないでよ。恥ずかしいから……」遊は右手の人差し指でこめかみを押さえる。「でも、薄荷もやっぱり男の子だよね」

「何で?」

「女の人の胸が気になるんでしょ? 思春期男子じゃん」

「うーん、でもただ大きいから気になっただけだよ?」

「やっぱり、男子は大きいのが好きなの?」

「わかんない。大きさよりキレイかどうかが大事かも」薄荷はテーブルに頬杖をついて少し考える。「遊のはちっちゃいけど、キレイだった」

「思い出すな!」

 遊はメニューの角で薄荷の頭を思い切り叩いた。

「お待たせしました~。あれ? 喧嘩してるの?」

 遊がテーブルごしに薄荷にヘッドロックを極めようとしているところに泉野がやってくる。大量の料理をのせたトレイを両手と両腕の前腕に計四つ持っていた。大したバランス感覚だ。

「泉野さん、遊がイジメる」

 遊の攻撃から逃れた薄荷が両手で頭を押さえながら泉野を見上げる。

「イジメてない! むしろ私が被害者!」

 遊が憮然として、尖った視線を薄荷に送る。

「ふふ、仲いいね~」泉野は皿を次々とテーブルに載せつつ、二人に柔らかい笑みを向けた。食欲をそそる香りが遊と薄荷の胃袋を刺激する。二人の腹が同時に鳴った。薄荷は無邪気に笑い、遊は頬染めてうつむく。

「まだ半分くらいあるけど、いっぺんに持ってくると冷めちゃうから時間差をつけるようにしたよ。それでいい?」

 薄荷は泉野の言葉にオムライスを頬張りながら頷き、遊は「ありがとう」とお礼を言ってフォークを取った。まずはハンバーグを口にする。驚いた。すごく美味しい。腹が減っているからとかいうだけじゃない。肉はかなり良い物を使っているみたいだし、焼き加減も絶妙だった。場末のファミレスとは思えない。フォークが止まらない。ヤバイ。もしかして私今幸せかも、と思った時には遊はハンバーグをすっかり平らげていた。薄荷の方を見る。オムライスの皿は当然のように空になっていて、今は汁を飛ばしながらあんかけうどんを攻略中だった。

「遊、美味しいね」遊の視線に気付いた薄荷が目を細めた。

「うん、建物の見た目からは想像できない。ここ当たりかも」

「ふぉいし~」

 薄荷はでっかいエビ天をくわえながら満面の笑みを浮かべる。遊はめいっぱいフォークでパスタをすくうと、ずぞぞとすすりこんだ。

「うわぁ~。二人ともいい食べっぷりだね~。これならすぐ次持ってこないと」

 二人の様子を見に来た泉野が慌てて厨房へと駆けて行く。

 遊と薄荷がテーブルの上のすべての料理を胃に収めた頃、第二段がやってきた。

 波状攻撃。二枚のピッツアとサラダの皿がどん! とテーブルに着地する。

 いいタイミングと薄荷は喜んで、ビッツアにタバスコを振りまくってパクついた。

「辛っ」薄荷は涙目になって、急いでお冷を飲む。「ううっ、まだ足りない」

「馬鹿、これ超激辛って書いてあるじゃん」遊は自分のお冷を薄荷に与える。それをあおってようやく薄荷は落ち着いた。

「大丈夫? そのピッツァは諦めて、私の食べたら?」

「いい。もう辛いって分かっているから平気」薄荷はそう言うとピッツァを手で大雑把に千切ってもりもり食べた。本当にもう平気っぽい。

「はい、これで最後ね~」

 泉野の甘い声とともにデザートが投下される。

 二種類のパフェにアイス、それにヨーグルトサンデーとバケツプリン。

 どれもなかなかの出来栄えだったが、遊と薄荷の目線はプリンに注がれた。

 バケツプリンは本当にバケツで作ったのかと思えるほど巨大な代物で、鏡面のようにつるつるとした表面に薄荷の顔がくっきりと横に広がって映りこんでいる。別添えの黒蜜シロップは普通のグラスになみなみと注がれていた。

 きっちり十人分くらいはありそうだ。

「薄荷、食べれる?」プリンに映り込んだ自分の顔と店内の景色を見ながら遊が訊く。

「量は大丈夫だけど、味が飽きちゃうかも」

「アイスと少し交換する?」

「うん、したいかも」

「どのアイスがいい?」

「苺もらっていい?」

「いいよ」

「ありがと」

 薄荷は泉野が気を利かせて持ってきた小皿につきくずしたプリンを大量にのせて、黒蜜を景気良くぶっかけて、遊に差し出した。遊は苺アイスと付け合せのフルーツを二つの小皿に盛って薄荷に渡す。

 二人はスプーンでそれぞれの品をすくって口にした。

 甘い幸福感に包まれた。

「ちょっと、隣いい?」

 デザートを堪能していると、泉野がアイスコーヒーを片手に声をかけてきた。通路を挟んで隣のテーブル席を指差している。遊も薄荷も口を動かしながら、目でいいと伝える。泉野はイスに座ると脚を組んでアイスコーヒーをストローで吸った。白いストローをつたって茶色の液体が薄いピンク色のルージュを引いた唇に吸い込まれていく。口紅をつけたまま何かを飲み食いして美味しいんだろうかと遊は思った。

「美味しい」遊の疑問に答えるように泉野が笑う。「今休憩もらったんだ。少しお話してもいい?」

「いいですけど……」あらかたオーダーした品を腹に収めた遊が首を傾げる。歳はたぶん十歳くらいは離れているのに。共通の話題とか何もない。

 そんな遊の表情からまるで心を読み取ったように、泉野はスカートのポケットから取り出したモノを遊達のテーブルに置いた。

 液晶にヒビが入ったカウンタだった。

 兵士? 敵?

 遊と薄荷は申し合わせたように、同時に鋭い視線で泉野を突き刺した。瞬時に戦闘モードに切り替わる。

「あー、もう怖い怖い、そんな顔しないでよ~」泉野は苦笑しつつアイスコーヒーのグラスを置く。「私はもう退役してるよ二十五だもん。それに今は夏休みでしょ? 戦闘はないよ」

 泉野は眉を八の字の形にして、両腕を上げて手のひらを遊と薄荷に見せた。

 戦意は無い、と証明したいらしい。

 二人は緊張を解く。

「退役して、ファミレスの店員ですか?」遊は視線を泉野の手のひらから、顔へと移す。薄荷もいぶかしげに泉野を見た。

「そりゃ年金は出るけどそんなに大した額じゃないしね。私もまだあと四十年は生きる可能性はあるし、ずっと一人で部屋に閉じこもっているのも退屈でしょ?」泉野はアイスコーヒーを飲み干して、グラスを置く。氷がからんと音を立てた。「この辺は結構お金持ちが多くて兵士の子なんて全然いないのよ。だから、君達のそれ見て懐かしくなって」泉野の指が薄荷の手首にあるカウンタを指した。

「少しデザイン変わったみたい」薄荷は自分のカウンタとテーブルの上のカウンタを見比べた。

「見せてもらって、いいですか?」

 遊の言葉に泉野は「いいよ」と答えた。

 泉野のカウンタを遊はそっと手のひらに載せる。自分がしているものより角ばっていて液晶が大きい。所々に傷がついている。

 カレンダーは五年前の日付を表示していた。もう機能は死んでいるようだった。

 ただ彼女の戦歴を物語る数字はまだ浮かんでいる。

 203

 二百三人が彼女の手により、このカウンタに刻まれたのか。

「あなたのも、いい?」泉野が遊に尋ねた。

 遊は無言でカウンタを外して、泉野に渡した。泉野は遊のカウンタを受け取って息を飲んだ。

「……あなた、今歳いくつ?」

「十四です」

「そんなもんだよね。それでこの数値か……才能あるんだね」

「それって微妙です」

「ああ、ごめん。皮肉じゃないから」泉野がカウンタを遊に返して、慌ててぺこぺこ頭を下げた。「それに罪の重さからいえば、私はあなたの二倍近いよ」

「いえ、私もそんなつもりはないです。ごめんなさい」遊も泉野に頭を下げた。

 戦闘のことを話題にするとどうしてもこうなってしまう。

 人殺しの才能がたくさんあると褒められても素直に喜べない。かといって、今までそのおかげで生き残ってきておいて全否定するのもおかしい。

「もうこの話はやめようか。ごめんね」と泉野が言ったので遊はホッとした。

 薄荷はずっと黙っている。

 わざと聞こえないふりをしているように遊には見えた。

「ところで、せっかくの夏休みに何でこんな田舎に来たの? 住んでる私が言うのもなんだけど、この辺何もないよ?」泉野が自分のカウンタを回収しながら、遊と薄荷を交互に見やる。

「海に行くつもり」ようやく薄荷が口を開いた。

「え? 海って、どこの?」

「海岸に壊れた船があるトコ。本当は近くの駅から電車で行くつもりだったんだけど、駅つぶれてた」

「あー、あそこか~。去年、沖で沈んだタンカーから重油がめっちゃ流れてきたんだよね~」

「……すごく行きたくなくなってきた」遊の眉根が寄る。

「まあ、清掃活動は済んだからもうキレイだとは思うけど。海産物は軒並みダメになったみたい。そのせいでただでさえ少ない観光客が壊滅的に減ったって新聞に載ってたよ。駅がつぶれたのもたぶんそのせい」泉野がトレイに遊達が食べ終わった食器を集め始める。

「電車使わないで行く方法って、ないの?」薄荷が泉野を見上げる。

「町に行って、タクシーを拾うくらいかな~」

「……それ振り出しに戻れってことですか?」遊がとても嫌そうな顔になる。

「ちなみに、今日町に戻るバスはもうないよ。歩くしかない」泉野がさらにマイナス情報を提供した。

「…………」遊はテーブルにつっぷした。

「じゃあ、歩く」薄荷はけろりとした顔で答えた。

「やめたほうがよくないかなぁ。町まで七、八時間はかかるよ?」

「町じゃなくて、海」

「ん?」薄荷の答えに泉野が首を傾げる。

「海までなら、たぶん五時間くらいで着くよ」

「いやいや、海まで歩くとなるとたぶん明日のお昼頃になるよ。ほら、山を迂回しないといけないし」泉野は窓から駅の方向を指差した。真っ青な夏空のカンバスに山稜が描かれている。

「迂回しなければ?」遊は顔を上げる。

「迂回しないのは無理。だって、電車のトンネルしかないもん」

 つまり、線路が海までの最短経路ということだ。遊は薄荷が何を考えているのか分かった。どうせ廃線になっている路線のレールだ。電車はまず来ない。たいして危険もないだろう。

「あの駅、入れそうだったっけ?」遊は薄荷に訊く。

「鉄柵の向こうに線路が見えた。高さ二メートルくらい」

「ベンチあったじゃん。あれ使えば楽勝かな」

「うん。見張りも警報装置もなかったし」

「決まり。突破しよう」遊は席を立つ。

「こらこら、君達、堂々と不法侵入の相談をしないの」泉野が少し顔をしかめる。「もし、私が軍とか鉄道会社に連絡したら困るでしょ?」

「するんですか?」遊はテーブルの伝票を手にしながら泉野を見る。

「しないけど」

 やれやれといった調子で泉野は息をつく。

「泉野さん、ご飯すっごく美味しかったよ」薄荷がショルダーボストンを背負って笑う。

「ありがと。厨房の連中に伝えとく」

「会計、お願いします」

「うん。ちょっと待ってね」

 泉野はそう言うと、レジではなく厨房の方に向かって駆けて行った。どうしたんだろう? と思っているうちに二本のペットボトルを持って戻ってきた。

「私のだけど持っていって。線路の上には自販機もないよ」

「いいんですか?」遊は半ば押し付けられるようにしてペットボトルを受け取った。

「いいよ。あと、ウチで作ったこれも」

「美味しそう」薄荷はラップでくるまれたサンドイッチを見てとてもいい笑顔になった。

「まだ食べちゃダメだよ。おなか減ってからにしなさい」

「はーい」薄荷は素直に泉野の言う事に従ってサンドイッチをショルダーボストンにしまった。

 レジで会計を済ませる時、泉野は「君達が二十歳になるまで生き残れるように祈ってるよ」と言った。

 遊は正直この先も生き続けることが果たして自分達にとって良いことなのかどうか分からなかった。

 が、とりあえず「ありがとう」と返した。そうすることが彼女に対しての礼儀だと感じたから。

 薄荷は何も言わず、ただ曖昧な笑みを浮かべていた。