第7話 二人きりの夏休み

 
 夏目が薄荷のカウンタに刻まれて五日が過ぎた。

 逝ってしまったクラスメイト達の席には小さな向日葵を生けた牛乳瓶が置いてある。薄荷が置いたモノだ。全部で八輪。だから、朝登校して密閉した教室の扉を開けると向日葵の匂いが鼻をついた。

 でも、匂いは日増しに弱くなっている。

「水取り替えてくる」

 薄荷は机にカバンを置くと牛乳瓶を集め始める。

 遊は目配せだけして何も言わなかった。

 薄荷は毎朝、牛乳瓶の水を取り替えていた。一度に八つの牛乳瓶は運べないので何回か教室と水飲み場を暑い中往復することになる。遊は手伝わなかった。花なんか置かない方がいいと思っていたからだ。そんなことをしても仕方がない。どんなに死者を悼んでもそれで何が変わるわけでもない。今まで何度もトリガを引いたくせにそんなことするなんておかしい。嘘くさい。死んだ子達は生き残った私達のカウンタの数値になった。ただそれだけのことだ。

 なのに、この数字を見つめるたびに胸が痛む。

 遊はそんな自分が嫌いだった。

 始業のチャイムが鳴るのと同時に薄荷が帰ってきた。牛乳瓶を持っていなかった。

 薄荷は遊の隣に座ると「もう枯れてたから捨てちゃった」とぽつんと言葉を落とした。遊は短く「そう」とだけ答えた。

 担任が来て、授業が始まった。薄荷はいつものごとく机につっぷして黒板の方を見ようともしない。遊も頬杖をついて、窓の外の景色を眺める。

 五日前と同じようにプランターの向日葵が風に揺れていた。

 薄荷は新しい向日葵を取ってはこなかった。

 きっと薄荷も本当は分かっているんだろう。

 忘れるしかないってことを。

 遊はもう一度、薄荷を見た。

 薄荷はあいかわらず机につっぷしていた。

 夏なのに身体を震わせて。

 また胸が痛む。

 だから、見えないように遊は目をつむった。

 こつこつと担任の板書する音が教室に響く。

 校庭からはセミの鳴き声が聞こえてくる。

 きっと、あと少し経てば、もう夏目の顔を正確に思い出すこともできない。

 向日葵の残り香を感じながら、遊はそう思った。


***


 授業を終えて遊は寄宿舎に戻る。薄荷は花の世話をしてから帰るから一人で帰るのがいつもの流れだ。玄関に入ると待ち構えていたかのようにバッグを持った管理人が小走りでやって来た。今日はめずらしく飲んでいない。それに身なりがいつもより小奇麗だ。口紅なんか引いている。

「今日の夕飯は作ってあるから勝手に温めて食べな。それと風呂の沸かし方は東雲が知ってるから教えてもらって。あと廊下や便所の掃除は一週間に一度はやりなよ。あんまり汚いところに住んでると身体に悪いからね。あと、それから――」

「え? どうしたんですか? 急に」

 矢継ぎ早に繰り出される指示に遊は面食らう。

「だって、どうせあんたは帰らないんだろう?」

「帰る?」管理人の問いかけに遊は首をひねる。

「家だよ。あんたの生まれ育った家」

「そんなのもうないです」

「だろうと思ったよ。あんた東雲と同じような感じだから」

「管理人さんは帰るトコあるんですか?」

「あるよ。退屈なつまらない町だけどね」

「良かったですね」

「そうでもないよ。しがらみだらけさ」管理人の女性は眉を八の字の形にして息を落とす。遊にはしがらみというモノ自体がよくわからない。だから、「そうですか」と返すだけにした。

「私が帰ってる間、不便かけるけど適当に楽しんでな。東雲は変わってるけど無害だから心配ないし、あんたもどっか出かけたくなったら何日か旅行するのもいいだろう。あ、軍への申請だけはしときなよ。忘れると面倒だからね」

「管理人さん帰っちゃうんですか?」

「ああ、ひと月ほどね」

「そんなに長く……よく軍が休暇申請を認めましたね」

「何を言ってるんだい? しっかりしなよ、あんたまさか明日も学校へ行く気じゃないだろうね?」

「行きますけど?」

 遊の返答に管理人は渋面になった。

「……あんたも実戦以外のことにはまるで興味がないようだね。まあ、あんな授業聞いても仕方ないけど、たまには教師の話にも耳を傾けたほうがいいよ」

「はあ」話が見えず遊は生返事を返す。

「明日から六週間、あんたも東雲も休みだよ」

「あ……」管理人の六週間の休みという言葉にようやく遊は状況を把握した。

「せいぜい殺し合い以外の青春を謳歌するんだね」管理人は靴箱からハイヒールを取り出して息を吹きかけて埃を払った。あちこちに傷がついている。かなりの年代物みたいだ。「みやげは食いモンでいいかい?」ハイヒールを履きながら管理人が遊を振り返らずに問う。

「美味しいものなら何でも」

「贅沢な子だね。行ってくるよ」

「いってらっしゃい」

 遊は玄関で管理人が出て行くのを見送った。

 そうか。

 そんなものも確かにあった。

 こっちに来てから、あまりに慌しくてすっかり忘れていた。

 遊は玄関を出て真夏の空を見上げながら、苦笑する。

 人を殺す訓練と、人を殺す実戦を繰り返す日々の中、ぽっかりと開いた空白の期間。

 四六時中、神経を尖らせている自分をとりあえずは忘れられる期間。

 実家に帰る酒臭い寮の管理人と入れ替わるかのように、それはやってきた。

 薄荷の植えた球根が芽を出す頃、それはやってきた。

 かりそめの平和。休戦。呼び方は色々だ。

 夏休み。

 夏休みがきたのだ。


***


「遊は夏休みどうするの?」

 夕方、食堂で管理人の作り置きしたロールキャベツを頬張りながら、薄荷は遊に尋ねてきた。

「特にどうもしないよ」

 遊はロールキャベツを冷ましていた。加熱時間を間違えたのか熱くなりすぎた。

「遊びに行こうよ」薄荷はごくんと口の中のモノを飲み込んで、ウインクする。

「行かない」遊はようやく冷めたロールキャベツを箸で切りながら答えた。

「え~~~?! 何で何で?」薄荷はイスに座ったまま両腕を振り、足をばたつかせた。

「だって、暑いし」

「寮に居たって暑いって」

「クーラーつけっぱなしで昼寝してれば暑くないよ」遊は頭の中にあるこの夏の過ごし方を薄荷に伝えた。「あとたまに訓練」

「そんなのつまんないよ! せっかくだから遊ぼうよ!」

「遊ぶって言っても、何も思いつかないよ。薄荷は何をしたいの?」

「外に泊まりに行って、海で泳いで、花火して、あとお墓参りして、」

「お墓参り?」

「うん、お墓参り。毎年行ってるんだけど、僕の知り合いのお墓が海のそばにあるから」

「どうして、そんな所にあるの? そもそも戦死者の遺体は軍が回収して処分するから私達にお墓なんてないはずだよ」

「それは……ちょっと事情があって」めずらしく薄荷が口ごもった。少し気にはなったが遊はそれ以上追求はしなかった。

「……どうしてもダメ?」薄荷が長い髪をいじりながら、上目遣いで遊を見る。

 遊はダメと言いかけて、口をつぐんだ。

 薄荷は捨てられた子猫が「お願い拾って」と訴えかけているような目をしていた。保護欲を強く刺激される。

 ズルい。

 この子計算している。

 遊の理性は理解していたのだ。薄荷は自分の容姿がどれくらい優れているか分かった上でこんな仕草と表情をしているのだと。

 その手にはのらない。のるはずがない。

「行かな――」

「遊、お願い」薄荷がペコリと殊勝にも頭を下げた。

 遊は再び拒否の意向を伝え損ねる。

 頭では罠だと分かっていても、目の前で展開されている敵の攻撃はあまりにも強力だ。そんな凶悪に可愛い顔で今にも泣きそうな表情をして甘えてきたりしないで欲しい。

「……考えとく」薄荷の顔から視線をそらして答えた。

 ぎりぎり踏みとどまった、と遊は思う。

「うーっ、OKじゃないんだ……」薄荷は口を尖らしてジト目で遊をにらむ。「海で泳ぐの気持ちいいのに……」

「私、水着持ってないし」

「学校のでいいじゃん」

「嫌だよ。あんなの」

「そこの海ほとんど人がいないから格好なんて気にしなくてもいいよ。僕はいつも裸で泳いでるし」

 ぐっ。

 遊は危うくロールキャベツをノドにつまらせそうになる。

 ……この子、私と同い年だよね? 十四だよね?

 薄荷が、海で、裸で泳ぐ?

 それは……。

 遊は頬が熱くなってきたのを感じる。

 うかつにも少しだけ想像してしまった。

「どうしたの? 遊」薄荷がテーブルの向こうから身体を乗り出して、遊の顔をのぞきこんだ。

 薄荷の顔が至近距離に迫ってきて、遊の体温はさらに上昇した。

「な、なんでもないよ! 急に近づいてこないのっ!」遊は薄荷の両肩をつかんで、ぐいっと後ろに押し戻す。薄荷はいつもの白いワンピースを着ていたから、指が直接、素肌に触れた。きめが細かい。そして驚くほど華奢な手ごたえ。これで男の子だなんて反則すぎだ。

「……もう子供じゃないんだから水着くらい着なさいよ」遊は努めて平静を装う。

「誰も見てないから平気」薄荷は無邪気に笑う。

「仮に私と行っても着ない気だったの?」

「うん」

「うん、じゃないでしょ!」

 この子は危険だ。色々な意味で。

 だけど、この子が一人で外泊しに出かけるというのはもっと危ない気がする。実戦以外の機銃を持たない薄荷なんて隙だらけだ。それこそお菓子に釣られて知らないオジサンにさらわれてしまうのではないだろうか。

 薄荷は保護者同伴でないと旅行なんてすべきではない。

 保護者って……。

 私?

 同い歳なのに?

 遊は嘆息した。

「出かけるのはいつなの?」恨みがましい目を薄荷に向ける。

「明日の朝」

「あんた急すぎ」遊は思わずげんなりとした顔になる。「今から準備するの大変じゃん……」

「え?」

「ついていってあげるわよ。海で泳ぐのはパスだけど」

「やたっ!」薄荷は両手をあげて喜んだ。

「本当は嫌なんだからね。ごちそう様」遊は箸を置くと、プラスチック製の食器を重ね始める。

「……遊の意地悪」薄荷は頬をぷくっと膨らませた。

「あんたも食べ終わったんなら、食器片付けなさいよ。まとめて洗っちゃうから」遊は食器をトレイに載せて席を立つ。

「は~い」薄荷もトレイを持って立ち上がった。

「私が洗うから、あんたは先にお風呂入っちゃって」

「わかった。ねえ、遊ってさ」薄荷は洗い場へと移動する遊の背中を見ながら微笑む。「お母さんみたい」

「……」

 遊は薄荷に背を向けたまま、苦虫をかみつぶしたような表情になる。薄荷は遊の複雑な心境など知るよしもなく、上機嫌で風呂場へと駆け出していった。

 たった二人分の食器を洗うには広すぎる流し台で遊はスポンジに中性洗剤を適当につけると乱暴気味に食器を擦る。プラスチックだから気を使わなくていいし、だいたいこの寮には遊と薄荷しか寮生はいない。食器なんて有り余っているのだ。五分もかからずに洗い終わった。遊はガスの元栓を確認して、換気扇を止めて窓を施錠した。蛍光灯を消して生ゴミをつめこんだポリ袋を抱えて食堂を出る。ゴミ袋を外に出すために玄関で靴を履き替えようと靴箱を開けると、ひらりと葉書が舞い落ちた。

 ギーからの絵葉書だった。

 すみっこが折れ曲がり、砂埃がついている。どうやら学校から帰った時、気付かないままスニーカーをつっこんでしまったらしい。三匹の子猫がじゃれあっている写真の上に黒マジックで、もし夏休み帰ってくるのなら、遊の分の布団を買っておくという内容が短く綴られていた。他人のことは言えないが、あいかわらずの無愛想ぶりだと遊は思う。それでも、子猫の絵葉書をチョイスしたところにギーなりの女の子に対する配慮を感じなくもなく、それがおかしい。

「遊、ゴミ袋もって何笑ってるの?」

 薄荷の声にぴんと背筋が伸びた。

 こんなに近くの人の気配に気付かないなんて。

「え? 私笑ってた?」

「うん。嬉しそうだったけど? 何かいいことあった?」

 短パンにTシャツ、頬をほんのり赤く染めた薄荷が長い髪をバスタオルで拭きながら遊を見ていた。

「大したことじゃないよ。入隊する前に居た町の知り合いから葉書がきただけ」

「遊の友達?」

「うーん……。どうかな」遊は薄荷の問いかけに曖昧な答えを返した。

「何て書いてあったの?」

「もし帰ってくるなら、泊まっていいって」

「それって、結構友達っぽい」

「わかんない。考えたことないし」

「そっか、遊は帰るところあるんだ」

 薄荷の声には特に何の感情もこめられていなかった。

 フラットな声。

 でも、それが故意に抑えられた、制御されたものであることを普段の薄荷を知る遊はすぐに理解した。

 ――遊は、僕とは違うんだ。

 薄荷はそう考えたのだろう。

 寂しさと罪悪感が入り混じった感情が遊の中で生まれた。

「おやすみ」

 薄荷はにっこりと笑顔を作ると遊に手を振って、歩き出した。

「うん、また明日ね」

 遊は薄荷の背中にそう返す。

 薄荷は髪を拭きながら、もう一度「おやすみ」とだけ言って階段を上った。

 遊はあと一言くらい何か言いたかったが、結局、何も言えず薄荷の後姿を見送った。薄荷が二階に行ってしまうと、手にしていたゴミ袋を焼却炉に運んで自室に戻った。

 ベッドに寝転んで、ギーから届いた絵葉書を見る。

 以前住んでいた町のことを思い出す。

 あの町には二年いた。最初はずっとあの町で暮らすんだと思っていた。

 娼婦をやって、たくさんの男達の慰み者になって、その見返りに食べさせてもらうんだろうと考えていた。とうに死んでも構わないと思っていたから、何も怖くないと、何だって堪えられるとタカをくくっていた。だから娼館の養父に引き取られる道を遊は選んだ。

 でも、たった一人の客でさえ受け入れられなかった。

 あの夜、遊はこの世には死ぬより嫌なことがあると知った。

 娼館に行くようにと、生きる残るための手段を遊に提示したのはギーだ。

 ギーは何があっても生きろと言う。持っているモノ全てを投げ捨ててでも生きろと言う。

 ギーは遊と同じように兵士だった。

 遊とは比べ物にならないくらいたくさんの死線をくぐりぬけて、トリガを引き続けて退役する二十歳まで生き抜いた。

 きっと、本当に何もかも捨ててしまったんだろう。

 たった一年だけだが同じ兵士になった遊にはそれがわかっていた。

 大切な何かを抱えたまま戦い続けるのは、ツライ。

 だから、捨ててしまうしかないのだ。

 遊はよく娼館を抜け出して、ギーの部屋に遊びに行った。特に何かをするわけではない。話もほとんどしない。ただいっしょにいてホットミルクを飲みながら本を読んだりテレビを観たりしているだけだった。

 ある日、学校でイジメられて顔に痣を作って帰ったとき、ギーは遊の手当てをしながら身体に傷をつけないようにしろと注意した。傷物になったら娼婦としての商品価値がなくなって生きていけなくなるぞ、と。

「そうまでしてどうして生きなきゃいけないの?」遊は問いかけた。

 ギーは何も答えない。黙って遊の手当てを続ける。

「ギーは生きてて楽しい?」

 ギーは答えない。

「ギーはどうして生きてるの?」

 ギーは答えない。

「自殺は嫌だけど――早く死にたいね」

 土砂降りの雨の中、顔じゅう腫らした薄荷が言った。

 遊には薄荷の気持ちが、泣きたいくらいよくわかった。

 扉の向こうで足音がした。

 薄く開いた目に、窓からの白い朝陽が痛い。遊の意識が覚醒する。

 さっき聞こえてきたのが薄荷の足音だと認識すると、遊は跳ねるようにしてベッドから身体を起こして部屋を飛び出した。

 寝癖をつけたまま、廊下を駆ける。顔も洗わないまま、階段を飛び跳ねるようにして降りる。玄関でスニーカーに履き替えるのももどかしい。遊はスリッパのまま外に駆け出した。

 ちょうど門のところに目標を捕捉した。

「こら、薄荷!」

 遊はカーキ色のショルダーボストンを抱えた細い背中に声をぶつける。

「遊?」

 薄荷は振り返ると、きょとんとした顔を遊に向けた。

「昨日、ついていくって言ったでしょ? 何一人で行こうとしてるのよ」

 わざと声に少し怒気を混ぜて薄荷をにらむ。

「でも、遊は帰るところがあるから」

「そんなこと勝手に決めないで」遊は朝の光がまぶしくて目を細める。「私にだってそんなトコないよ。だからあんたにつきあってあげる」

「……無理してない?」

「何で私があんたのために無理をするの?」

 薄荷は困ったような、驚いたような、嬉しいような色々な表情を瞬時に見せ、最後にはうつむいて「ありがとう」と小さな声で言った。

「私がシャワー浴びて、用意するまで待ってて」

 遊はぺたぺたとスリッパを鳴らして寮へと戻る。

 後ろで薄荷が元気な声で「うん」と笑んだ。