第9話 海へ

 
「いつでもどうぞお入りくださいって、感じだね」

 例の駅舎に戻って一応周囲を確認した後、薄荷はそう結論を出した。遊もまったく同じ意見だ。二人は倒れたベンチを運ぶと鉄柵に立てかけた。強度は充分。梯子代わりとしてうってつけだ。遊と薄荷は猫のような身軽さで悠々と鉄柵を乗り越え、駅の内部に侵入した。時間にして五分もかかっていない。二人はさっさと人目につかないところまで移動したくて、全力で線路まで駆けた。夏の太陽が作り出した二人の影が砂利の上に踊る。先に線路にたどり着いた薄荷はレールの上に立つと、そのまま器用にてくてく歩いていく。特にバランスをとろうと苦労している様子もない。やっぱりあの子の運動神経はとんでもないと遊は感心した。少し遅れて遊も線路の上に立つ。等間隔で敷設された枕木がずっと続く先を見る。

 この先には海がある。

 そう思うと胸が高鳴った。

 小さな子供みたいだ、と遊は苦笑する。

「海の匂いがするね」

 レールの上を歩きながら薄荷が鼻をひくつかせた。

 遊は薄荷に追いつくと、鼻から空気を吸ってみる。が、周囲を取り囲む雑木の匂いらしきものしか感じられなかった。

「私にはわかんないけど」遊は枕木の列から薄荷に視線を移す。薄荷は「えー? すっごい海草くさいよ~」と言ってレールから降りた。

「あ」

 砂利に足をとられたのか薄荷がフラついて転びかける。

「危ないよ」

 遊が慌てて支えてやる。

「ごめん」

 照れくさそうに薄荷が少し日焼けした顔をほころばせた。

「……」

 遊の胸に複雑な感情が沸き起こった。

 無防備すぎる笑顔。

 それは薄荷の遊に対する信頼の証だ。

 だけど、それは兵士として生きる者にとってはマイナス以外の何物でもないと遊は考えている。

 薄荷と近くなりすぎた。

 すぐに距離をとらないと。

 でも、このままでいたいとも思う。

 相反する欲求が遊の判断を迷わせる。

 そんな自分に困惑した。

 どうしよう。

 もし、これが戦闘ならとっくに殺られている。

 トリガを引けずに、撃ち殺されている。

「……気をつけなさいよ」

 遊はなるべく感情を制御して言葉を押し出した。

 とりあえず問題は棚上げ。

 答えは夏休みが終わるまでに出せばいい。

「うん、ありがと」薄荷はまたへらっと笑顔を浮かべて、遊から身体を離し駆け出した。長い髪から微かにシャンプーの匂いが漂う。遊も使っている寮の風呂場備え付けのシャンプーの匂いだ。

 同じ匂い。そんなどうでもいいことが嬉しい。

 ……馬鹿みたいだ。

 暑さで頭が熱暴走でも起こしたのかもしれない。

 少しでも冷却しようと思い、遊は大きく息を吸って吐いた。

 でも、熱気を含んだ空気が肺に送られただけだった。

「遊~っ」

 前方を見る。

 薄荷が分岐器のそばで座り込んでいた。その少し先には小さなプラットホームがある。

「どうしたの?」

 泣きそうな顔をしている薄荷が気になって、遊は分岐器のところまで駆けた。

「ひねっちゃった」

 薄荷は自分の左足首を押さえながら涙目で遊を見上げた。どうもレールの上で飛び跳ねて着地の際に失敗したらしい。

「こうすると、痛い?」

 遊はその場にしゃがみこむと薄荷の足首を少しずつ動かしてみる。薄荷はそんなに激しくは痛がらなかったが、患部は赤く腫れ上がっていた。これはあまり動かさない方がいい。遊は嘆息する。

「気をつけなさいって言ったばっかりなのに……」

「……ごめんなさい」

「あんた本当に戦闘の時以外は隙だらけだね」遊はカバンから包帯を取り出すと、薄荷の足首をテーピングし始める。

「遊、包帯なんて持ってきたんだ」

「当然でしょ。いつ怪我するかわからないんだから。ほら、立ってみて」

 薄荷は遊の両肩をつかんでおそるおそる立ち上がる。

「どう?」

「あんまり痛くはないけど、足首が窮屈っぽい」

「ゆるいと意味ないから、我慢して」

「うん。……遊、本当にごめんね」

 さすがの薄荷もしゅんと肩を落としていた。叱ってやろうかと思っていたがこんな風にされると何も言えなくなる。

「もういいよ。それよりあんたはあのホームで休んでて。私、町に戻って湿布とか買ってくるから」

「え? いいよ。そこまでしなくても」薄荷はぶんぶんと首を横に振る。「早くしないと陽が暮れちゃ――」

 ぱっこん!

 遊は無言で薄荷の後頭部を手のひらで叩いた。

「遊、何するの~?」薄荷が瞳を潤ませながら、遊に抗議する。

「そんな足でこれ以上歩けるわけないでしょう? 今日はもうここでストップよ」

「え~?」

「え~、じゃない。もうこれは確定事項」遊はぴしゃりと言い切る。

「でも、夜はどうするの?」

「あんたを抱えて町まで行くのは無理だから……ここで野宿かな」

 遊は周辺を見渡したが、もうここはすっかり山の中で近くに人は住んでいなさそうだ。薄荷を動かせない以上、助けを呼ばない限りここを動くことはできない。

「明日の朝、足の調子をみて良くなってたら町に戻ろう。そのまま病院に行くよ」遊は薄荷の脇の下に頭をつっこんで肩を貸す。「明日も良くなってなかったら、仕方ないから助けを呼ぼう。軍に不法侵入がバレちゃうけど」

「殴られて、独房入りくらいになりそう」

「そうだね。でも、無理して足をダメにするよりはいいよ」

「……別にダメになってもいいのに」

「でも、そうしたら次の戦闘で薄荷撃たれちゃうよ? それは嫌でしょ?」

 薄荷は少し考えた後、「わかんない」と答えた。

 遊は何も言わず、薄荷の体重を支えながら砂利道を歩いてプラットホームに続く石段を登った。赤錆だらけの鉄柵が行く手を阻む。でも入り口に鍵はかかっていなかった。蹴り飛ばして進路を確保。黄色い点字ブロックに沿って歩き、ホームの中を確認した。

 ここも廃駅だから誰もいないはずだ。

 非常通報ボタンのついている柱にとまったアブラゼミがけたたましく鳴いてはいるけれど、他の物音はない。

 シャッターの下りた売店の横にあるベンチに薄荷を座らせよう――として異状に気付いた。

 ベンチがキレイだった。

 他の設備にはあらかた埃が降り積もっているのに。

 誰かいた――いや、いるのか?

 薄荷は遊に小声で言った。

「先客がいるみたい」

「今もいる?」

 遊の問いに薄荷は頷く。遊は思考を巡らせる。

 正体はわからないが廃駅に忍び込むような人間だ。まっとうな相手である可能性は低い。良くて自分達のように忍び込んだ子供、悪ければ犯罪者かそれに類する人物といったところか。あるいは鉄道会社の人間かもしれない。それが一番まずい。もし捕まればすぐさま軍に連絡がいって懲罰コース確定だ。薄荷の脚が治らなければ仕方ないが、できれば殴られたくはないし、独房で鬱々と夏休みを過ごすのも避けたいところだ。

 ふいにアブラゼミが鳴きやんで、代わりにベンチが揺れた。

 がたっと無遠慮な音を立てて。

「あ、痛たたた……頭ぶっちゃった……寝ちゃってた……」

 ベンチの下からにょっと脚が伸びて、額を撫でながら先客が顔をのぞかせる。

「――?」

 半分寝ぼけたような顔を、先客が遊と薄荷に向けた。

 そして、

「あ、あああ、あたし、怪しい者じゃないですよ?」

 ベンチの下から這い出した少女の第一声がそれだった。

「……」遊は無言で少女を注視する。

 廃駅のベンチの下で寝ていたせいか、髪はぐしゃぐしゃ。

 着ている服はところどころ痛み、汚れている。

 極めつけは白いスカートにべったりとついた血痕らしきシミ。

 怪しさ満載だった。

「嘘つき!」

 薄荷も遊と同じように考えたのか、あっさりと少女の言葉を否定した。

「う、嘘じゃないですよぉっ! 本当に怪しい者じゃないですぅっ」

 少女が首を左右に激しく振る。

「怪しい人は皆そう言うんだよ!」

「うっ。そ、それは、そうかもしれませんけど……」

「有罪有罪!」薄荷が嬉しそうに判決を下す。

「うわーん!」そして、少女が泣き伏した。

「…………」

 やっかいなのに出会ってしまった。

 薄荷と少女のやり取りを見て遊はそう判断し、天を仰いだ。

 このまま状況に流されるのは危険だ。まずは現状を把握。しかる後、適切な処置をして早々にご退場していただくのが吉だ。

 とりあえず事態を収拾しよう。

「……まあ、有罪でも何でもいいけど」

「よくないですっ!」遊の言葉に少女はすぐに反応する。

「有罪有罪!」嬉々として薄荷がはしゃいでいる。

「不当裁判です!」また少女がさめざめと泣き出した。

「それ話してると話が進まないから。薄荷はちょっと黙ってなさい。あとあんたも薄荷のノリに付き合わなくていいから」

 遊はとりあえず薄荷をベンチに座らせる。

「あれ? あなた怪我してるの?」少女が薄荷の前にかがんで包帯を巻いた足首をまじまじと見た。

「うん、ちょっとひねっちゃって」

「可哀想。痛いの?」

「少し」

「あ、あたし湿布持ってるからあげるね」

「ありがとう」

 二人はすでに打ち解けていた。

「こらこら、あんたら何いきなり仲良くなってるのよ?! 薄荷も少しは警戒しなさいよ!」

「えー? でも、たぶん吉野家はいい子だと思うけど?」

「うん。あたしいい子」少女は破顔する。「でも、吉野家じゃなくて笹倉。笹倉冬子《ささくらふゆこ 》」

「笹倉より吉野家って顔してる」

「そんなことないよ!」

 また冬子と薄荷がじゃれだした。

 このままでは話が一向に進まないので、遊は二人の会話に割って入った。

「……で、その笹倉さんは何でこんなトコで寝てたの?」

「うん、話せば長くなるんだけど、実は」

「短くして」いいかげんうんざりしていた遊がキレ気味に言った。

「は、はいっ! 家出したからですっ!」

 家出。

 そっか。そんなもんか。

「……その血は?」遊はスカートのシミを指差す。

「いっしょにいた子が怪我しちゃって。その子の血」

「まだ誰かいるの?」

「う、うん」冬子はそう答えると、何故かまたベンチの下に潜る。「正確に言うと、いると言うより、いた、かな」

 過去形。

 冬子は薄汚れたバスタオルに包まれた丸い何かを引っ張り出す。

「猫?」

 薄荷が、くんと鼻を鳴らした。

「昨日の晩までは生きてたんだけど……」冬子がバスタオル越しに猫の死体をぎゅっと抱いた。バスタオルにもところどころに血痕があった。

 家出してきた女の子が一人だけ、血は猫のもの。

 とりあえず大きな危険はなさそうだ。

 遊は一番欲しかった答えを得ると、肩の力を抜いて額に浮かんだ汗を拭った。

「わかった。色々訊いてごめん」

「ううん。ねえ、あたしにも教えてくれる?」ようやく弛緩した空気の中で、冬子が笑う。「あなた達の名前」